カバラの「生命の木」の中心に位置する6番目のセフィラ、ティファレト。
ヘブライ語で「美」や「調和」を意味するこの場所ですが、「なぜ愛ではなく、美なのか?」と疑問に思ったことはありませんか?
この記事では、カバラの基礎知識を踏まえつつ、私が20年の探究と人生の体験を通して行き着いた「ティファレトが示す本質的な美の世界観」について、読み解いていきます。
生命の木における「ティファレト(美)」の基礎知識
ティファレトとは、マルクト(地上の現実世界)以外のセフィラとつながっている生命の木の中心です。生命の木全体の均衡を取っています。
本質的な自己であり、高次の自己を示します。
分離したものを統合し、あらゆるものに美を見出す場所です。
生命の木全体についてはこちらからどうぞ。

「世界が輝いて見えた」あるイニシエーションの記憶
私がカバラを学んだのは、約20年前にミステリースクールで。
「神になる」という言葉に、ゾクゾクするような高揚感を覚えました。
スピリチュアルの世界では、「この世界の最高のエネルギーは愛」と言われていました。
初めて「ティファレト(美)」という言葉を見たとき、愛ではなく美なんだとぼんやりと思ったことを覚えています。
そのときは、その先の人生でずっと「カバラが示すティファレトの美とは何か?」を探究し続けるとは思いもしませんでした。
しかし、カバラは本を読んでもわからない。
難しすぎて、一度は諦めて本を全て処分したこともあります。笑
私が学んだミステリースクールはすでに日本にはなく、他に学べる場所が見当たりませんでした。
それでもカバラから離れなかったのです。
2024年、伊泉龍一さんの講座を受けたときに気づきました。
これまでの人生そのものが、知らないうちにパスワーキングになっていたのです。
今生の私は、カバラを知識として学ぶのではなく、体験として理解することになっていたのだと。
カバラはいくつかの人生に渡って習得していくものと言われています。
人生の体験を通して、ティファレトがなぜ「美」なのか。
少しずつ実感をともなって理解できるようになったのです。
確かに、ティファレトは「愛」の場ではないように思います。
あなたは恋したときに世界がバラ色に見えたことがあるでしょうか?
バラ色かどうかは別として(笑)、または恋に限らず、「世界が輝いて見えた」経験はありませんか?
私はミステリースクールでアデプトというイニシエーション(儀式)を受けました。
アデプトを受けたその日、駅への道を歩きながら、世界がとても美しく輝いて見えたのです。
私は景観を壊す商業的な看板が嫌いでした。
車や新幹線の車窓から見える田んぼに立てられた看板などに少しうんざりしていたのです。
しかし、その日は看板さえも輝いて見えました。
積まれたゴミ袋ですら尊く感じました。
それは人間が生きている証そのもの。
私の世界から「醜さ」が激減しました。
それまで私は美人や宝石といったものにしか、美しさを感じたことはありませんでした。
しかし「美」の概念が書き換わったのです。
夏生まれでこよなく夏を愛する私は、冬が好きではありませんでした。
しかし、青空の下、冬枯れの木々が輝いて見えたのです。
あ、美しいと感じた。
それから私は冬が嫌ではなくなりました。
世界は美しかった。
その美しさを感じる視点を持っていないだけだった。
生きるための看板。
人が生きている証であるゴミ袋。
世界が美しかった。
輝いて見えた。
ゴミ袋すら輝いていた。
それは、ゴミ袋に愛を感じたからではありません。笑
ただ、美しいと感じた。
それだけです。
花を見て「あ、美しい」と思う瞬間。
曇り空の向こうの光に目を奪われる瞬間。
その瞬間、私は愛しているのではありません。
ただ、美しいと感じています。
理由はありません。
「愛」と「美(調和)」の違いとは?葛藤のない統合の場所
不安なとき、世界は輝いて見えません。
あのきらめくような木々の葉、透き通った空の輝きはありません。
ティファレトは「美」ですが、「調和」とも言われます。
「あ、美しい」と感じる瞬間。
その背後にあるのは愛よりも、どちらかというと調和の感じがします。
ティファレトは統合の場所です。
葛藤はない。
「あ、美しい」に葛藤はありません。
現実世界(マルクト)で「美の採集」をすることの意味
私は長い間アメブロで記事を書き、写真を載せていました。
その写真は私が「美しい」と感じた瞬間を切り取ったものが多かった。
それを言語化するならば、マルクト(現実世界)の「美の採集」をしていたのです。
マルクトで「あ、」と瞬間の美に気づく。
それはマルクトが豊かな世界であることを認める行為であり、マルクトからの呼びかけです。
その瞬間の美を切り取って採集する。
写真を撮るのが好きになりました。
そして自分が撮った写真は、いかにも私らしい写真です。
これ自体がマルクトからティファレトへと生命の木を上昇しています。
この美の採集をするようになってしばらくすると、クライアントの美が見えるようになりました。
クライアントを「存在の美」として見る瞬間が増えたのです。
まとめ:存在に対する絶対的な「賛美」として生きる
クライアントが悩んでいても、笑っても、何をしていても、圧倒的な美として存在している瞬間が立ち上ってくることがあります。
存在に対する絶対的な賛美。
神への愛を歌う歌は、なぜ「愛の歌」ではなく「賛美歌」と呼ばれるのでしょうか。
ティファレトについて考えているとき、このことを思いました。
賛美とは、理由を超えて「ああ、素晴らしい」と感じること。
葉っぱを見て美しいと感じる。
世界の中に美を見る。
クライアントに存在の美を見る。
その瞬間、葛藤はありません。
世界との調和があるだけ。
ティファレトから見ると世界は美しい。
葉っぱも。
曇り空も。
人間も。
「なぜティファレトが美なのか」
カバラを学び始めた日にぼんやりと抱いた疑問は、日々の生活の中で、そして人生の経験を通して理解できるようになったのです。


問題はダミーです。目の前の問題を掘り下げていくと、問題に隠れた望みが見えてきます。望みに気づくことで問題は問題ではなくなり、自己一致します。自己一致すると、現実を動かすための行動が自然にできるようになります。生命の木とタロットを用いた対話型マンツーマンセッションです。


















